2012年5月9日水曜日

朝鮮出兵の内実は、『成長社会から安定社会への転換時点で生じた大惨事、一種のバ...

朝鮮出兵の内実は、『成長社会から安定社会への転換時点で生じた大惨事、一種のバブル弾け現象だった』のですか?

書籍:歴史の使い方より

著者:堺屋 太一



P169



豊臣秀吉の天下統一が達成されると、全体の石高はもう増えない。武士社会は完全なゼロサム社会になったのである。

俄然、各大名家もその家老たちも、過剰雇用と過剰投資に苦しみだした。「何とかせねば」という苦悶から二つの案が出た。



一つは外国貿易で稼ごうという経済路線、対馬出身の堺商人、小西隆佐・行長父子らがその代表格である。

もう一つは外国で領地を増やそうという軍事侵略路線、加藤清正らはこの主張者だった。



秀吉はどちらも採用した。石田三成らの側近の官僚たちは小西の経済路線を支持したが、それでは商才の乏しい武辺者たちは承知しない。

だから、「両論併記」のような決定をした。小西行長には朝鮮王国を仲介にして明朝中国との交易を拡げる交渉をさせる一方、加藤清正らには朝鮮を占領して領地を拡げ、中国にまで攻め入れ、と指示した。

朝鮮の一部を占領すると、毛利の外交僧、安国寺恵瓊などは、早々と日本語学校を開設したりしている。長期の領地経営を考えていたのである。

だが、実際には両方ともに不可能だった。当時の中国、万歴帝統治下の明朝では、北から来る満州族と南に現れた南蛮勢力を警戒して、外国貿易を禁止する鎖国政策を強化していた。

このため、小西行長の「土下座外交」にもかかわらず、日本には「封は与えるが貢は許さず」(豊臣秀吉を日本国王と認めるが、朝貢貿易は許可しない)という返答が寄せられた。豊臣秀吉が第二次朝鮮出兵をせざるを得なくなった理由の一つである。

一方、領地獲得の方は、朝鮮人民の反抗と現地経済の無知で大失敗だった。朝鮮出兵は膨大な費用と労力を消耗しただけで、年貢を得るどころではなかった。



歴史の教科書や歴史物語では、朝鮮出兵は、ただただ豊臣秀吉の野心と大ボラで始まったようにいわれているが、その内実は成長社会から安定社会への転換時点で生じた大惨事、一種のバブル弾け現象だったのである。







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短くてすいません

バブルを通り越してリストラかも知れません








ハッハッハッ・・・・ある意味そうかもしんないね。



でも、その頃は経済なんて成り立ってなかったからバブルとは言わないんじゃないかな!?

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